こんにちは四年生の井土元樹です。今回は私が第4回の授業を振り返ってみようと思います。
前回までの『シリア』、『ジャーナリズム』、『ICT』といったテーマからは離れて、メンバ間のコミュニケーションの円滑化を図るべく『インプロ』というものを行った。
インプロ…
陰気な奴らが集まった芸能プロダクション?
GO-pro ®︎(激しい動きにも耐えうる小型ハンディカメラ)に対抗した完全室内引きこもり用カメラ?
インディーズ歌手がプロを目指す青春感動物語?
様々な憶測が僕の脳内を駆け巡るなか、僕はこの未知なるインプロの対峙を迎えた…
インプロー正解はインプロヴァイゼーション(=improvisation)の略称である。
この動詞系のImprovise という単語の意味はNew Oxford American Dictionaryによると”Create and perform(music, drama, and verse) spontaneously or without preparation”お節介ながら日本語の意味は『まっさらの状態から何か(音楽、劇、詩など)披露するまで持っていく。またその為の準備の時間は用意されていない。』ということ。そこから考えると『即興劇』なんて言葉が授業中は使われていたけど、『無茶振りに応える』となんて言葉で理解していただいて問題はないだろう。外国語学習では辞書の言葉が必ずしも最善の訳だとは限らない。外国語学習に励む読者諸君には自分が納得出来る意味をその外国語から読み取り『我輩は辞書である』と自信を持って言っていただきたい。
まずは練習がてらアイスブレイクとして自己紹介を各メンバに行ってもらった。『僕の名前は井土元樹です。好きな食べ物はワチェです。よろしくお願いします…』自己紹介ぐらい楽勝だろうと思いきやそうは問屋がおろさない。旅の恥はかき捨て、ここから既にに戦いの火蓋は切っておろされていた。私が実際に行った自己紹介を書き起こしてみた。
『Hello, I’m MAD (=おバカ)Motoki…!@#$%^&*』
あれだけ煽ったくせに、ただ名前と同じ頭文字から始まる形容詞で修飾しただけではないか。そう思った読者の目は節穴だ。穴があったら是非入っていただきたい。小生無駄なことはしない性分である『!@#$%^&*』の部分を見逃してはいけない。この部分で何をしたかというとその形容詞を身体全体を使って表現するのである。私が選んだ形容詞は”mad”すなわち『狂人的な』、『おバカな』みたいな意味があるので思いきり『アホウ』なポーズを取るといった感じである。こんな恥ずかしいポーズを公衆の場でやったら、確実にお嫁にいけなくなるだろう。しかし、ここに今回のインプロの工夫が見出せる。みんなで同じことを繰り返すのだ。『赤信号みんなで渡れば怖くない』なんていう一見どうしようもない言葉は、多くの人が一緒にやってくれると仮にそれが社会的に評価行為ではなくても、人はその行為にいくらかの正当性見出せるようになるということを言い得て妙だ。おかしなポーズを要求された不安を共に乗り越えることに協力してくれた仲間との距離はぐっと縮まる。それは、心の拘束具を緩め自己の開放に繋がる。
ここまでがウォーミングアップである。
次に行ったのはトランプゲーム(仮)
ランダムに配布されたトランプの値の順番に整列するゲーム。小学校入学以前の児童(入園待機中を含む)でさえ一瞬でクリアできる。
「そう数がわかればね。」
このゲームのみそは割り当てられたカードを、手をかざし額部にあてる。あなたがあなたの顔を見つめることはできないのとおなじで鏡でも使わない限り本人はそのカードが示す値を直視することはできないのである。それではどうするのか。
第六感を爆発させる?カード表面の微妙な凹凸を触った感触から探る?
いや、人に聞けばいいのである。
ただし本ゲームではもう一つ重大な制約が存在する。
それは会話の禁止である。私たちは日常的に言葉に囲まれて暮らしている。
何かしら情報を手に入れるときは、その媒体として言葉は必要不可欠である。言葉が使えない時点でこのゲームは成立しない。諦める前から試合終了である。全国のバスケットボール部の顧問の顔が真っ青となる事態が訪れる。
彼らの名誉を守るため常識は常に疑うもの、言葉を失った我々に残された手立て、それは手だけ?
そうジェスチャーを用いたコミュニケーションならば言語を発することなく成立する。人類の起源をたどりネアンデルタール人まで遡ること2万数千年前それが当たり前であった時代が存在したのである。
2万数千年前の人類が出来たことが私たちにできないことはあろうか?いやない。手だけでは満足がいくジェスチャーができないとわかってくると、私たちは、足を、身体を、表情を使い自然と豊かな表現が生まれていった。人類の祖先もそうやって表現の幅を拡張していった末にたどり着いた表現の一つが声帯を振動させるー声ーだったのかもしれない。話を戻すと通常よりも制限された状況でいかに相手の持っている自分のカード番号という状況を引き出すかと言うことを考えると、
そのためにはしっかりと相手に向き合う必要がなってくる。逆にその見返りとしてもしくは交換条件として、自分の光彩に焼きついた相手の必要な情報を伝えなくてはいけない。本ゲームでは嘘をついても特にメリットが無いため当然お互いの信頼が構築される。たとえ授業以前話したことが無いとしても仮の信頼が重なることであたかも本当の信頼関係が構築されていたと錯覚し心を許す端緒となる。このフェイズが終わり、番号順の列が完成する頃にはお互いがしっかり顔を見て話せるようになっていた。
なお補足として、今回は1から13を各一枚ずつで行ったが各プレイヤーは周り人の値がわかるため、消去法的に自分の番号が予測可能となるのが穴。
仮に本ワークの実践を試みる読者がいるならば、そのいわゆるズルを行わない『お約束』を浸透させることを推奨する。
最後に行ったワークはアホウなポーズをいかにフォローして美しい芸術作品へと仕立てるゲームである。またもやアホウなポーズである。この効果は自己紹介フェイズで実感してくれているだろう。グループの前で誰かがアホウなポーズをとる(この時のポーズは身体全体で行うこと)ことになるのだが『羞恥心を殺した若者の台頭』なんてタイトルをつけられるか、『こいつなにやってんの?笑』と小馬鹿にされるかいずれにせよ観衆の嘲笑の対象となることは想像に難くはない。観衆自体がこの状況を防ぐために奮闘するというのがこのゲームの要点である。
見ている観衆の一人は立候補し、舞台に飛び込んでいくことが許される。そして先駆者の取る痛いポーズの意図を解釈し、それにコンテクストを与える新たなポーズを与えることができる。最初にアホウだといったのはそこに意味が見出せないからであり、そこに何か価値(=美しさ)が発生した時点でそれはアホウではなくなるのである。のこされた観衆その価値を見つけ分かりやすい形で言葉として、すなわち二人が身体全身を使い表現したい内容を一言で発することが求められる。
私たちのクラスでは最初にポーズをとることはやはり難しいので周りの学生が応援してやりやすい状況を作ったり、二人で作った表現がいまいちな時は三人目、四人目が加わるなどたくさんの例外が生まれた。結果的にそれらの嬉しい副産物も幸いし、参加者全員が遠慮せずに楽しめる空間を作ることができた。
だらだらと書いてきたが最後に今回の授業の要約として、インプロは表現の面白さを再確認できたとまとめたい。情報通信技術の普及により、いつどこにいようとコミュニケーションをとることはできるようになったが、我々の表現の幅を狭めてしまったと言える。ビデオ電話など少しずつ改善は見られているが直接の接触や全身を使った動きには対応できていないし、むしろ直接会う機会が失われているため、そのような表現をすること自体が少なくなっている。そんな時代だからこそ、こうしたアナログな表現が私に刺激を与えてくれた。
長文に付き合ってくれた読者諸君には、すぐさまとは言わないがスマホ及びパソコンを終了し、誰かに会い自由な表現を楽しんで欲しい。そうすれば色褪せて単調な社会も少し色づいて見えてくる….
本授業の企画、運営を手がけてくれた”Dandy” 小野田(あだ名はDEN)にこの場を借りて感謝申し上げます。