こんにちは、モトキです。今日も長文おつきあいお願いします!
私たちのクラスでは、授業の後で『内省』が必須となっている。
私たちの授業は極めて白熱している。他の授業のように、スマートフォンから発せられた光を網膜に感じ取ることや、壮大なストーリーを掻き立てるようなレム睡眠を誘発させるような生徒はまず見られない。私が最近授業中に見た夢は…おっとそこから先は野暮というものだろう。
つまるところ、本授業中は極めて白熱しているのである。
読者諸君はお気づきだろうか。寝るのは授業中だけにして、目を見開いてもう一度よく読んでいただきたい。
授業中『は』白熱しているのである。
一旦教室から離れると、それぞれが自我を解放する。すなわち授業に起こったことは忘却の彼方へと追いやられてしまうのである。
光陰矢の如し、時間の経つのはあっという間だ。
夏休みもすぐさまやってくるだろう。
『君がいた夏は 遠い夢の中♪
空に消えてった 打ち上げ花火♪』
『僕がいた授業 遠い記憶の中♪
書くの忘れてた 反省課題♪』
青春の思い出の一ページとして、打ち上げ花火は大きな意味を持つ。
その一瞬で終わる儚さ、それを乗り越え、また若者は次へ進むのである。それ経てこそ、花火はノスタルジーではなく良き思い出と変わるのである。クリスマスにまで夏の思い出を引きずっているやつにロクなやつはいない。それを可能にするために、一時的に忘れ、その瞬間に傾倒することが人の頭の中で無意識に行われるだろう。
いつまでも消えていかず空に滞留している花火は若者のモラトリアムを助長するだけで何の価値も介在されない。
しかし、いちいち授業が終わるたびにその余韻に浸っていては、次の授業に遅刻するのでさっさとそれは乗り越えて欲しいのだが、その起こったことをすべて忘れてしまっては困るのである。
この授業のテーマは「My Development Project」であり、自分自信を成長のために何ができるのか?ということである。
一般的に成長の定義は諸説存在する。子供はほっておいても、身長が増加し、大人へと近づいていく。大人も、油断すると体長が増え、肥大化する。この栄養を体に取り組んだゆえの外見の変化は、一種の成長とも言えるだろう。
この授業における『成長』を担当教員の考えを参考に再定義を行った。
①経験(授業中になにか、新しい、刺激的なことを行った。他の人の意見を聞いた。)
②それを振り返る(具体的にあったことを分解する。)
③抽象化(そのこゝの出来事に意味づけを行う。)
④教訓(その見出した意味を自分の行動、思考に反映させる。)
それを踏まえて再び①経験フェーズに戻ることで、仮に同じ経験だとしても新たな気づきがあったり、これまで不可能だったことを経験できるようになる。ここではこの繰り返しによって起こる変化を『成長』と定義しよう。
それではなぜ学生はこの課題に関して消極的だったのか。
『結局学生がいい加減である。』と結論付け、その解決策として提出を怠った場合即ゲームオーバー(失単位)とすれば簡単である。幸か不幸か私は探究心の塊と言う性なので、向き合って行きたい。
一番に思いついたことは『振り返り』をすることの意味、目的がよく分からないということではないだろうか。
初回の授業から今に至るまで、その意味について言及されたことはなかった。確かに納得ができないことを、決まってるからやれと強制されることほど理不尽で、気が進まないことはない。
先ほどまで、書き連ねた『成長』の定義こそがその理由であるのだが、考え方の抽象度が高いために、それを自身に投影することができず状況は変わらないと思われる。これを身をもって実感してもらうことができれば一番である。
より具体的な方策に踏み込んでいきたい。
現在振り返りの方法として学内支援システムの授業毎の掲示板が採用されている。理由は保存スペースとして優秀であり、また生徒の個人情報のデータベースとの紐付けも行われているため担当教員が、数年後に『振り返る』ことを可能にしてくれるからだ。
しかし、現状を省みるとそれが機能していないのは明らかであり、何かしらの変化は必要である。
この議論を進めていく中で、振り返りのモデルとして成功しているメディア例としてフェイスブックが挙げられた。
フェイスブックは、学生と社会人(教授含む)が『友達』であることは稀有ではない。
このように多方面からの繋がりが存在し、珍奇な投稿は敬遠される傾向にある。つまり報告や、進退、生活環境のの変化、区切りなど大きな出来事が投稿の対象になりやすい。記憶に新しい例は、昨年(2015年)にパリのテロが発生した際に、普段テロやイスラムのような難しい話題を避けてきた人たちが突然コラムニストへと変貌し、持論を展開していた様は記憶に新しい。(他地域のテロに関しては全くと言っていいほど盛り上がらなかったのは不思議であるが。)逆に『腹減ったー』とか『暇〜』のような中身の伴わない発言は敬遠される傾向にある。(多くのユーザーにとってその機能を担うのはtwitterやインスタグラムであるとも言える。)
とどのつまり、フェイスブックの投稿には神経を使うのである。
そんなリスクを孕むフェイスブックを人々は何故利用するのだろうか。他媒体との差を生み出したのは、文章を世に送り出した先に存在する。
それは『いいね』と『コメント』といったフィードバックである。フェイスブックユーザーの読者諸君は良かれと思って投稿したにもかかわらず、あまり『いいね』を押してもらえなかった経験はおありだろうか。その投稿は他の読者にとっては『寒い』もしくは『つまらない』投稿でしかなかったのである。日本人はあまり他者に注意をしない傾向があり、大したことなくても『とりあえず褒めとけ』の精神が根強い(と思う)。しかし、直接対面しないからであろうか、日本人が『いいね』を押すかどうかの判定は極めてシビアである。
補足的に、私自身もかつての投稿を振り返ると、自分を揺るがすほどの大事件にはたくさんいいねが付き、大したことのない投稿だと、ほぼゼロであるから、しっかりと判定は行われているといえるだろう。
そんな状況だからこそ、自信のある考えがあるとき、人々はこぞってフェイスブックに自らの思いを連ねるのである。
投稿にあたり、当然『書く』という動作が伴われる。
『書く』と『話す』の1番の違いは、『他者性』にある。
話すの場合、相手が目の前にいるか、もしくは電話越しか、とにかく相手の発する言葉に対して何かしらのレスポンスを早急に求められる。もしあなたが友人に何か話しかけたとして、その都度15分間待たされていたら、その友人とはうまくやっていけるだろうか。『話す』に求められるのは運動神経に近い。
一方『書く』には、存分に時間が与えられる。(作家やライター、学生等には〆切が存在するが、『聞いてから5秒以内に書き始めろ。なお、後戻りは許されない。』というシチュエーションはまずないだろう。唯一思いつくものとして、入試等のテストであり、それは、短時間でまとめ、発信する『話す』に、近いと言えるだろう。
与えられた時間はそれは読み返すのにも使われる。つまり、もし話に整合性がなければ、自分の書いたことに対し気持ち悪さを覚え書き直すだろう。また単純なメモを除き、何かを書くとき場面では経験した事実の羅列で満足いく人はいない。『付け合わせの人参とポテトのないステーキなど言語道断理論』がここで適用される。その一つ一つの事実にスパイスである抽象的な考え(感想、反省)で彩る必要性がある。
例えば『友達とご飯を食べた!!』という事実があるとすると、例えば『もっと就活の話をすればよかった。』と『遠慮しないでステーキ頼めばよかった。』か、極端なことを言うと『楽しかった』のような、自らの考えを添えることで『ご飯を食べた』という事実が、意味を持ち、その意味が大きければ大きいほど自分にとって重要な出来事であったと言える。
他の例として、仮に卒業式をテーマに文章を書くとした場合、『大きなホールで偉い人の話を聞いた』という無味乾燥な事実が、その背景にある4年間の学生生活をベースに様々なことを考え、書き加えるために一大事となるのである。もし友人が卒業式について書いた何かを読む機会があれば、見て欲しい。卒業式の時に起こった何か(校歌を歌ったとか)を書いてる人など誰一人もいないと気づくだろう。
ここでいい加減な感想を付け加えては文章としては、ステーキの付け合わせにお刺身がきたのと同じぐらいナンセンスである。人は文章を書く時には無意識のうちに、たくさんあるうちの感想から、その事実に一番ふさわしいものを選別しそれを書くのである。
これが反省とは何のつながりがあるのだろうか?
起こった出来事に関してしっかりと文章に表すことは、その事実をしっかりと『振り返り』意味を与える作業に他ならない。
その意味の積み重ねこそが『教訓』であり、それを重ねることで成長を望めるのである。
話をフェイスブックに戻そう。これに関しては、『いいね』や『コメント』がその自分の蓄えた『教訓』に対する一種の評価基準となるため、もらえると嬉しいのであり、また一生懸命になるのである。ここで評価をもらえた『教訓』はより信頼できるものとして蓄えられていくことだろう。
フェイスブックの持つ三つの要素、1.誰でも(目上の人なども)読めるオープンな環境、2.その発信は自動的に行われタイムライン上に現れる。、3.他の人からのフィードバック(『いいね』や『コメント』)が『振り返り』の求める条件合致していたと言える。
しかし何もフェイスブックが、そもそも『書く』が自省のための最高のメディアというわけではない。
世の中には『書く』を苦手と感じ拷問とさえ感じる人も多数存在する。そういった人たちからすると早く書き終えてしまいたいのであり、十分な振り返りも行われないことだろう。
逆に考えると三つの要素を持ったらば『振り返えり』ができるとも考えられ、『書く』の代わりに動画やパワーポイントでまとめて、ツイッターやフェイスブックやブログに発信することや、youtubeに流してみたり、インスタグラムを使うことだって十分振り返りのためのメディアと機能する。
どうせやるなら『楽しく』。
『内省(=振り返り)』という小難しい言葉を実現しようとしていたのがそもそもの過ちで有った。自分の好きなメディアを通して、見聞きしたことに意味をつけていく作業を楽しんでいるうちに、自然とその中で質の高い『反省』が行われる。それを通していくことこそが、私たちのクラスの最終目標である『成長』への近道であると結論付けて筆を置きたい。